私の思考散歩・生活雑感 ぽつり草々 021〜030

021. 大いなる不安

今日も事務所を訪れた設備関連業界の営業マンの方と話しをしていたのだが、結構、不景気というのか、言葉では言い表せないこれからの日本社会に押し寄せるプレッシャーがいたるところの企業周りで語られているという。
ここ2年来、我々の設計業務においても、何か風向きが変わったというか、臭いがしなくなったというか、今までとは何かが違うという思いがひたひたと押し寄せているのを感じていたが、単純な経済不況というものではなく、今まで色々な困難を乗り越えてきた日本人のDNAの資質をもってしても、いや、その日本人のすばらしいDNAが溶けて突然変異を起こし始めているような流れが感じられる。

○○さんと呼ばれていた職業が、機械化、合理化の波に飲み込まれ立ち行かなくなった事例はたくさんあるが、地球環境問題におけるCO2削減目標の実行、M&Aのような企業買収・合併など今までになかった事由で中小レベルの企業や職業が一瞬に消滅していく時代では、その背景にあった生活・文化は津波にさらわれるように遠く旅立ってしまう。
たとえ、記憶が、歴史が記録として残っても、この傷痕は日本人のDNAに突然変異をもたらし、もはや日本人は新種の日本人になるのではないか。バブル経済崩壊後の不毛の10年、そして構造改革という日本人の精神解体の時代を経て、一体、我々の日本はどうなってしまうのだろう。とても気味悪い不安感が漂う中で、多くの人々が次の一歩を、明日の生活をどうしようと悩んでいる。

あちらこちらで噴出している社会現象の根深いところでの変異を知ってか知らずか、もっとも舵取りをしなければならない政治家は、今日も政局ゲームをしている呑気さである。
大概、人生においてはプラス思考で取り組んでは来たが、今、感じる空気は得体の知れない何かを感じさせている。資本主義社会の経済活動が、貪欲な金融システムに支配されることで、人間本来の活動を越えたブレーキの利かない社会体制を生み出し、貧富の格差、そこに連関する多様な社会格差をもたらし、人々はあえいでいる。
こうした状況にあっては、主義・主張やイデオロギーをまこと淑やかに振り回し、上から目線で何を論じたところで現実は一向に改善されない。アベノミックスなどはその最たるところであろう。女性が社会で活躍する社会は良いことであるかもしれない。しかし、そのことで、男性の給与所得が相対的に抑えられ、女性は非正規雇用でうまい具合に低賃金で労働提供することになっている。男女の基本的な役割の崩壊が、育児の問題(保育所不足・待機児童問題)少子化の問題など、波及的に引き起こしている。IT技術の進歩の今、女性の仕事のあり方は、より先進的なかたちで、工夫されれば、育休問題も改善されるだろう。男女平等を、主義として正当化するとしても、男は子供を産めない。職能のあり方も今一度根本を見つめないことには、この日々のなにげに不安な心情は、連鎖的に人々をあきらめの世界に導く。それは不幸の始まりだと思う。

 

022. 過去のリアリテイ

時々、若者と雑談する時があって、私の小学生時代、昭和25年頃、京都の街中を日通の荷馬車がのんびりと荷を運んでいて、学校帰り道、御者の目を盗んで、荷車の後ろに飛び乗って友達と「らくちん、楽珍」と、遊んだこと。
今でこそ市街地となった山科地区もその頃は京都市近郷農村で、そこからナスやトマトなどの野菜の行商が日々市内に来ていたこと、ましてや、その農家が、し尿の汲み取りのために牛に引かせた汲み取り桶を積んだ荷車を引いてきたある日、牛が突然人家の前で産気づいて、お百姓の叔父さんがあわてて私の家にぼろ布切れを探しに飛び込んできた。
数分後だったか記憶は定かではないが、アスファルトの道路の上に敷き詰められた筵や布切れの上で、湯気をたてながら無事小牛が生まれ出たのを、大勢の近所の顔見知りも、通りすがりの人もなんとも言えぬ一つになった雰囲気、空間で見守った話しをすると、話しを聞いた若者も「ほんとですか?」などと言いながら目が点になった顔をする。

先日も、「いや、本当に激変の時代を実体験されてきたことが羨ましいですよ」という若者もいて、確かに過去を振り返れば、テレビや家電製品、自動車の普及、今のパソコン、携帯電話など文明の発展を伴う工業化社会、情報化社会、コンセプチュアル社会の,時の流れを兎にも角にも実体験で生きてきた。翻弄されることも多々あった。
20数年ばかり前に、アメリカのNASAでも使用されたという6000万円もする汎用コンピュータを関係していた教育機関が導入、その講習を緊張して受けた新しい体験等も今でも生々しく思い出す。
ところが、あっという間にパソコンが市場に出回り、学生の研修には一人一台の時代。6000万円もしたコンピュータは5年で場所ばかり取るお邪魔ものとなり、導入時の大騒ぎはなんだったんだとため息。
過去のリアリテイを実体験・体感した世代が、今やバーチャルな世界をも覗いている。
この現実が、いつか併せて過去のリアリテイとして如何に感じられるのか興味は尽きない。
それにしても、世代を超えて若者と色々話し合うことは大いに楽しく人生を心地よくさせる。時代の継承には、色々なメデイアもあるが、あい対面して、語り継ぐことによって、その語り合った瞬間が、若者にとってはリアリテイな記憶となり、やがて「こんなことがあった」と過去のリアリテイに変化する。おもしろいことである。

 

023. ビールに敬意を

ちょっとした催しのオプションでサントリービール京都工場の見学に行った。

ビ-ルの原料・素材である天然水、麦、ホップに対するこだわり、厳選。さらに仕込み、発酵、貯酒、濾過という製造段階でのこだわりや技術の注入など現場を見ながら説明を受けると、ビ-ルも凄く贅沢なものなのだと感じ入った。

ザ・プレミアム・モルツの製造ラインを見学したが、麦芽本来の旨みと深いコクのある味わいにするために、仕込み槽で徐々に麦汁の温度を上げながら、一部の麦汁を2回煮沸するダブルデコクション製法や、ホップの香を最大限に引き出すためのアロマリッチホッピング製法の採用など興味深いものであった。
温度管理や最後の決断が経験を生かした作業技術者の判断で適時行なわれているのも、ビ-ルがまさに生き物であるという証拠のようだ。
「愛情を込めて」といってもおかしくない人間くさい作業が、ピカピカに磨き上げられた工場で、整然と進行している様はなかなかの時空である。

見学後、最適に冷やされた出来立てのザ・プレミアム・モルツをいただく。
グラスへの好ましい注ぎ方まで説明を受けたが、あれほどに作る段階でこだわりがあるなら、飲む段階でもそれなりの流儀を求めてもしかるべきかなと、納得して聞いた。
参加者の一人が、「最近は発泡酒を飲むことが多いので、久しぶりにコクのあるビールを飲みました」とビ-ルの奥深さに気付いた一言を発言、アテンダント嬢の笑顔が一段と晴れやかである。

私は、旅先ベルギーでの薫り高いビ-ルを思い出しながら、とても心なごむ午後のひと時を味わった。 ずっと以前、日本ではビ-ルと言えばキリンビールが圧倒的シェアを占めていて、独特のほろ苦さがビ-ルの味と思い込まされていたが、サッポロビ-ル、アサヒビール、そしてサントリービ-ル、やがては地ビ-ルが出回るようになり、ビ-ルにもさまざまな味わいコクやキレなど風味が競い合って、売り出されると、なるほど色々味わいの違いがあって、それぞれに好みの味わいが市場を分け合うようになった。軽井沢で、「よなよな」と言う地ビ-ルに出合った時も、感動したが、今度の見学で、その道、プロはいろいろ試行錯誤しながら絶対と言う根拠のない味覚の世界で、かくも戦っているというその努力、研鑚の結果、ワインのように香の世界まで含む新しいビ-ルの世界が拡がってきている。発泡酒、ノンアルコ-ルのビ-ルもどきなど、何処まで何が生まれ出るのか。ともあれ、ビ-ルにも、生まれいずる幾多の物語、苦労のあることを想い、敬意を払い、大切に飲もうと思う。軽々に「日本酒党や」「ウイスキ-がいちばん」「やっぱりワインやね」などとほざくのはやめよう。どれもみな、作り手の命がけなんだ。

 

024. 地域の歴史

我が家のはす向かいに住む古老は、地域の歴史に大変興味を持っておられ、特にこのあたりの古地図から色々な歴史的事実を読み解いたり、想像するのが楽しい様子である。

以前、平安宮の区画図と、寛永10年(1628年)、明治35年の実地測量図のコピーをいただき、地図を比較、参照しながらその変遷を通して歴史の「なぜ」「これはどうして」など話を聞かせてもらった。

今、私の住んでいる場所は、平安京の頃に存在した、東市、西市という市場の東市のすぐ南に当たるということで、ちょうど市場帰りの人たちが、息抜きをした繁華街に当たるそうだ。東市の専売品は、衣類、織物、文房具、兵具など34品目があり、鎌倉、室町時代時代には七条市場として栄えたとのこと。今は拡張された堀川通りから僅かに西に入るためその面影はない。
時代は下って、新撰組の面々も、まさに現在の家の前をうろうろしていたと聞くと、とても不思議な気がする。

先日は、安政5年(1858年)のこの下京地域の大火、文政13年(1830年)の京都大地震の瓦版のコピーを現代訳と共にいただいた。テレビ等ない時代のこと、瓦版がその生々しさを語っている。
被害の様、老若男女、人々の周章大かたならず,昼夜のわからなく、東西にほんそうし、あるいは親をすて、子をうしない、其のそうどう大かたならず。あわれおびただしき事筆紙につくしがたし。右にしるすは当二日七ツどきより五日中のことにて、今に地震ゆりやまず。まことに古今のちんじ故、まづ、あらましをしるす。なをくわしくは追而出はん(版)。とある。

地球環境問題など、未来に向っては多くの関心が払われ、時代意識は鮮明に現れるが、振り返れば、ほんの200年、いや1000年、我々の先祖は天災、戦争、差別など色々な出来事の中を多情な葛藤も伴いながら、生き抜いてきたのだが、歴史という圧縮された時間認識の中で過去に関してはあまりも感情を伴わずに生きている。
記憶の風化現象、「わすれること」はほんの僅かの間、生かされる人間へのささやかな癒しとしての天からの贈り物かも知れないが、もう少し過去に、歴史に感性を移入して学ぶ必要があるのではないだろうか。
戦後間もないころ、類焼を防ぐため、取り壊された家の後が広場になっていて、三角ベースボールや鬼ごっこで遊びまわったところも、今は昔、ビルや家並みで時の彼方に跡形もない。その時代時代の地図は色々な物語を想い抱かせ、不思議な魅力を醸し出す。
古地図の通り名をたどりながら、今の京都を重ねて、空想散策してみた。

 

025. 弘法、筆を選ばず

子供の頃、何かと成績の上がらぬとき、関わる道具のせいにして、もっと良い(高い)物を使いたいと親にねだったら、「弘法、筆を選ばず」という本当の諺かどうか知らないが、とにかく腕や能力のある人は、いちいち道具なんかのせいにしないものと、まずもっと努力しなさいと一喝されたものだ。

昨今、話題の水着はどうだろう。昨日も、スピード社製の水着を着た選手が、日本新記録を連発したというニュース。
ハイレベルのオリンピック出場予定選手が、着用しての結果であるから、やはり、水着に性能の高さがあるという明白な証明である。

ゴルフのクラブの性能、棒高跳びのポールの性能、シューズを始め競技道具の性能は、今までも色々と話題になったが、今度の水泳のようにシンプルな競技において、水着のテクノロジーの差によって、人間の能力をスピードという尺度で測るとき、その結果が異なるというのはある意味、人類の知能の凄さを感じさせるものでもある。
競泳力の真実を知りたいなら、選手は素っ裸で競い合ってみるしかない。
競泳におけるオリンピック代表選考は百分の一秒を争う熾烈なものである。代表派遣として設定されたタイムに達しなければたとえそのレースで一位になっても代表にはなれないのだ。水着の性能はますます気になる。
競技のためだけでなく生活用具においても、切れ味や精度、耐久性など機能性において明らかに違いの分かるものは、いつしか数値化、ブランド化がはかられ、購入する前から、そのよしあしが判別できるようになっている。
しかし、ファッションにおけるブランド品などは、機能性以上に美的センス、ファッション性に選択の基準をゆだねることが多いので、ある意味、つくられた情報を選ぶことになる。ブランド品を身に着けることで、情報の共有化がはかれ、身なりの印象から、営業成績を上げる結果になることもある。
本当のところ、ごく日常生活においても、高級品といわれるものは、何がしかの競争原理上の優位性を持っている。だから、人と競い合わないなら、何事も気楽なものだが、日常なにがしかの競争社会を生きる身には、弘法、筆を選ぶところに人間味もあろうかと我が身に振り返って苦笑する。

 

026. 都会の蛍

子供の頃には、戦後、祖父母が疎開していた南丹地方、園部の川辺で、何度か蛍狩をしたが、その後、環境の悪化と共に何時しか都会では、蛍も夏の夜店で売り物になるほど自然のものではなくなった。

一昨年、数十年振りに南丹市、日吉の里に蛍見物に出向いて、真っ暗闇の里山近く、かなり高いところの木々まで蛍が光る木の実のようにいっぱいで、時々その幾つかが、ふわぁつと浮き流れた静かな美しさは、訳なく幾多の感慨をかき立てたものだ。
思わずあの時、一緒に遊んだ従姉妹たちはどうしているだろう。
祖母と一緒にキリギリス捕りに出かけた夏の日のことなど懐かしさが甦る。

私にとって、蛍はどこか夢物語の世界、懐かしい記憶の世界になったと思う昨今、なんとすぐ近くの梅小路公園に蛍が出るとの情報をお隣のおばさんから聞く。日頃散歩に何度も出かけ、確かに小さなせせらぎもあるが、まさか「蛍」が出るとは信じがたい。
早速女房と二人で、夜の8時頃出掛けてみた。公園は治安上外灯も点灯しているので、真っ暗闇というわけではない。なんとなく子供の声が聞こえてくる。
小川のあたりに近づいてみると、どうして聞きつけたのか、蛍を見に来た親子ずれ、若いカップルたちが結構いる。目を凝らしていると、なんと数えることの出来るささやかな蛍の群れがほのかに見えてきた。
「いる、いる」「あっ、とんだ」
蛍より多勢の人がひそやかではあるが、高ぶった気持ちでささやいている。
近くに飛んできた一匹を、手のひらに包み持つと、「おお。蛍だ。」という光りが手のひらの中にぼおっとにじみ輝いた。

京都駅エリアといっても良い、こんなど真ん中の公園にどうして「蛍」が。なんとも自然感がなく、さりとて人工的、擬似感というのでもない不思議な舞台である。
山里の木々に鈴なりの光の実、示し合わせたように一群が瞬く光のリズム。息をのむ一瞬。都会の中の公園の蛍は、そんな世界があるとは知らず、ふわりふわりと単独飛行。
それでも都会人、若いカップルや子供たちにとっては、こんな蛍との出会いはやっぱり一夜の思い出になるかも知れない。
孫にも「都会の蛍を見においで」と電話しょうかと思ったが、これは孫に見せるほどのことはない、見せるならやっぱりもっと蛍の里ごと見せよう。そんなことを呟きながら帰宅した。
後刻、聞くところでは、昨年あたりから誰かが蛍の幼虫を小川に放したらしいとの事。嘘から出た真ではないが、本当にこの都市公園が蛍の名所になったら、すばらしいだろうなと思いながら、ささやかな蛍の命運との更なる出会いを期待したいと思った。

 

027. 海外旅行

私が始めて海外旅行をしたのは1973年、建築家仲間9人と「20世紀のアメリカ建築見て歩き」21日間のアメリカ横断旅行である。もともと仲間が時間を掛けて計画していたツアーだったが、参加予定者が急なキャンセルということで、ピンチヒッターというところであった。
大学卒業後、叔父の会社のアメリカ主張所に行かないかと誘われたことがあったが、帝国主義のアメリカには興味がなく、拒絶反応をしていた。ニュヨーク、シカゴ、オクラホマ、フェニクス、アリゾナ、サンフランシスコ、ロスアンゼルスとほぼ横断旅行をして、見ると聞くとは大違い、当時のアメリカの民主主義の奥深さ、人々の生活のリアリテイに圧倒された記憶は今も鮮明である。
以来、実際に見聞することの重要性を痛感、建築を通して生活と文化を体感するべくヨーロッパやアジアをも旅することになった。何度か、生活と文化の旅と称した企画を自身で立て、旅行代理店の協力でオリジナルなツアーを毎年1回計画・実行、知人仲間と楽しく旅をしたこともある。
文化の違いを体感することは、こんな世界もあるのだ、こんな生き方もあると身も心も膨らむ快感があった。夏のヨーロッパなどはなかなか太陽が沈まないので、午後の7時から闘牛場に出かけ、10時頃からレイトショーをみる。真夜中も酒場で一杯、一日が、人生が急に倍になったようだった。
昔は、修道院であったり、貴族の館であった建物がホテルに転用されているところをなるべく選んで宿泊すると、そのインテリアから、周りの環境から生活の厚みが一杯感じられ、とにかく映画やテレビ番組で見て感激していたすばらしい世界が体感できる。
色々見てまわるうちに、日本の味、日本の空気の穏やかで、爽やかで、華やかな良さが少し感じられるようになると、その根底に理性と感性のバランスのあり方、違いが見えてくる。 気に入った国に定住して活躍する日本人も多いが、何時の日か日本人の感性や考え方が、欧米の人達と交流していけば、きっと平和な人類の道筋が出来るに違いないと確信する。人種のるつぼのアメリカ、はじめての海外旅行で直感したものが、少し実体としてイメージ出来る今の年齢になると、多くの日本人がもっと世界に出向いて、日本人的人間バランスを見直す機会を持てば良いと考える。理屈ぬきに楽しい海外旅行ではあるが、その効能にも期待したい。

 

028. 祇園祭雑感

7月になりました。いよいよ祇園祭気分です。
生まれてからずっと40数年、放下鉾町で過ごした私にとって、祭りの中心地、鉾町を離れて20年になるが、今時になると祭りの賑わいが、お囃子の音が体の中で舞い上がるのを感じる。
飽きることなく、鉾の組立作業を眺めていた子供の頃、鳶の親方の下、若い衆が見事に縄だけで鉾を組み立てる。毎年1回の出会いだが、見覚えのある子供達に愛嬌バツグンの若い衆が、だんだん出世して、私が社会人になった頃には、采配を振る組頭になって、威勢良く掛け声をかけている様を、わけなくうれしく感じたのを思い出す。
はじめは寝かされて組み立てられる鉾の胴体に、町内の露地塀の庇の下にひそかに保管されていた鉾の心棒の上の竹の部分が町会所の蔵から運び出された幾多の部材・部品と一体になる。いよいよ鉾建てである。職方は勿論、町内びとも繰り出して音頭に併せて綱を引き、鉾を立てる。無事にシャキット鉾の心棒が天空に聳えると、どこからともなく拍手。
車掛けという結構難しい作業が残っているが、半ば完成のひと時である。
鉾の組み立て、鉾たてにも実は日頃なんでもない道にちゃんと装置化された仕掛けがあって、基本柱を組み立てるときには目印になる四角形の御影石が4つ埋め込まれている。心棒を立てるときには、皆が引いた綱を巻き取るための冶具をとり付けるため2箇所に12センチくらい、深さ60センチくらいの穴が掘られ、通常は目立たない蓋がされている。
一見まっすぐな道路を区切った鉾町であるが、鉾が立つ町会所の部分は、ややふくらみがある。鉾が立てば、鉾に乗り移るために町会所の軒庇が稼動して欄干橋状の装置が取り付けられる。それに、蔵から部材が運び出されるが、装飾品は主に蔵の2階部分にあるので、祭りの時は仮設の搬入用空中橋が中庭を横切って母屋に向って掛けられる。
昨日まで普通の町屋のような町会所の建物が、あっという間に姿を変え、祭り仕様になる様は、本当に何度見ても気分一新の爽快・感動ものだった。 祖父が横笛の師匠格であったので、7月といわず、5月はじめ頃には、その年から笛方になりたい人たちが〈鉦方を卒業した若い衆〉我が家に来て練習を始めるのだが、ピィピィ、ひゅうひゅうと頭の痛くなる音を出すのが、今にして懐かしい。 祭りの前の縁日、夜店や屋台の並ぶ数日の、我が家に帰るにも一方通行で時間がかかるなど、祇園祭には色々な思い出が一杯である。

 

029. 疲労骨折・人生疲労

近頃、スポーツ選手に「疲労骨折」で休養を余儀なくされる事例が目に付く。
骨折といえば、骨がポキリと折れてしまう様をイメージしてしまいがちであるが、疲労骨折はトレーニングのし過ぎで、ひび割れた骨が修復される以上に酷使され、亀裂が入り、痛みなどの症状が伴う状態ということだそうだ。

トレーニングも限界を超えると「過ぎたるは及ばざるが如し」。
しかし、疲労骨折を起こすくらい繰り返し練習をつまないと、なかなか一流のレベルに達しないというのも本当のところと云えるのだろう。まじめな努力家タイプの選手に多いともいえる。

人生においても、順風、何事もさしたる努力なく生き抜ける人は別として、たいていの人は、日々繰り返しの生活の中で色々な努力をしている。
肉体疲労、精神疲労、トータルで人生疲労と呼びたい疲労現象が、忍び寄ってくる。
人間の回復力、免疫力などは結構強靭なものではあるが、疲労骨折のように、ある限界を超えてストレスなどの負荷に耐えているとある日、突然、修復のバランスを失って人生疲労の症状に陥る。

向上心を持って、より高い目標に向って、がんばるのは元来すばらしい資質と思うが、人生はオリンピックのメダルをとるかどうかで評価が決まるというものでもないので、身の丈にあった、なるべく一番好きで楽しくやれる世界を見つけ、そこで、出きる限りの自分流パフォーマンスが出来れば、人生疲労でのリタイアを少しでも回避できるのではないか。
そのためには、その時々の自分の年代を生きる、20代には20代の、その時にしか出来ないことを、優先して実行する事が大切だったと振り返って思う。
大雑把な言い方をすれば、そうした生活の中で、色々な人との出会いや出来事の思い出をたくさん持つことが、人生の終焉に向って人生疲労を比較的軽やかに受け止められることにつながるような気がする。これからの残りの人生も、人生疲労症候に陥らないよう、いろいろなバランス感覚を磨きたいと思う。

 

030. 年寄は気を付けなければ。老いの発見。

数日前、仕事仲間の方と大阪でほどよく飲んで、地下鉄に乗って大阪駅に着き、京都に帰る電車を待っていたのだが、連絡路や階段をせっせと駆けあがったせいか、なんとなく酔いが回ってきているなと感じていたら、「大丈夫ですか、大丈夫ですか。メガネがわれていますよ。」
「血が出ています、」という声が聞こえて、我に気が付く。
なんと、しりもちをついたような格好で、倒れこんでいる自分を発見。一体何がどうなったのか、まったく記憶がない瞬間。
ちょうど電車が到着。
立ち上がって乗ろうとしたら、周りの方が「乗れますか、大丈夫ですか」と声をかけてくださる。 「メガネのガラス破片が顔についていますよ」と教えてもらう。顔を触ると、粉々のガラス破片がきらきら光っている。空いた座席にかけさせてもらう。
その時、誰かが通報してくださったのか、駅員の方が駆けつけ、2人ウロウロと乗車口の辺りで、通報の事情を探しておられるのが人ごみの間に垣間見えた。「お急ぎのところ申し訳ありません。ただいま救護要請がありしらべております。しばらくお待ちください」との車内アナウンス。
まだ酔った頭ではあったが、これは自分のことだと恥じ入ると同時に、周りの方の親切をありがたく感じた。
4分出発が遅れたとのアナウンスがあった。意識を失って倒れるのも初めてだったが、大怪我や事故にならずに幸いだったこと、近頃の社会は冷たい風潮だと思っていたが、周りの方の親切にも感謝した。
京都駅に着く直前にも、延着をわびる車掌さんのアナウンスがあって、少し酔いもさめたので、なおさら申し訳ないとおもいつつ、助けてくださった方にお礼を言って下車した。

イヤー、やっぱり年をとったんだという思いが切々とした家路であった。メガネもなく、血のついたシャツをきてぼーっと帰宅した主人を見て女房殿は「どうしたん。」と絶句。
事の顛末を聞くや、すぐに病院に行って、頭の検査をしてもらえという。もう夜分、今は意識もはっきりしている。大丈夫だといってその夜は眠る。翌日はあいにく管理建築士の講習があって、病院にはいく暇もなかった。次の朝、顔面、特に唇が切れたあたりがいまだうずくものの、意識はしっかりしていたが、脳血栓などの予兆かも知れないと、息子達からもいわれて、病院に検査にいく。
内科から脳外科をまわってCTスキャンなどの検査をして、転倒時の外傷から来る問題はないとの診断を得たが、意識を失って倒れるというのは、糖尿病から来ることもあるので、糖尿病の検査、そしてMRIなどの検査をして下さいとのことである。
とにかく、年をとったのだから、お酒を飲んで今回のような無様なことにならぬよう、自重しなければならないと思った。ほんとに自分の老いの発見そのものであった。

 

廣瀬 滋著