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私の思考散歩・生活雑感 ぽつり草々 道歌 003
2024/12/2
ロシア人女性の日本文学研究者が、日本人の心、日本文化を非常によく表しているものとして「道歌」についてお話しをされていた。日本に留学して、勉学の傍ら合気道を習っているとき、その教えを端的に表すものとして道歌に出合い、以来、研究テーマを「道歌」に変更してまで取り組まれたとのこと。
和歌、短歌、俳句、川柳や自由詩というジャンルのあることは知っていたが、「道歌」という言い方を知らなかったので、大変興味深く聞いた。
道歌とは「道徳・訓戒の意を、わかりやすく詠んだ短歌。
仏教や心学の精神を詠んだ教訓歌」(広辞苑)ということだが、実際には、仏の道、武道、茶道をはじめ、○○道と名のつくいろいろな世界における教訓や極意を詠んだ短歌の総称ということでよいかと思う。
後日、調べてみると、「なせばなる なさねばならぬ なにごとも 成らぬは人の なさぬなりけり」、「はけば散り はらへば、またもちり積もる 人の心も庭の落ち葉も」といった今までにも、ごく日常生活の中で親や先輩に聞かされたことのあるものをはじめ、「初鴉 きくも心の 持ちようで 果報とも啼く 阿呆とも啼く」、「咲く花の 色香にまして 恋しきは 人の心の 誠なりけり」、「世の中に わがものとては なかりけり 身をさへ土に 返すべければ」等々、ともすれば見失いがちな生活の指針、人生の有り様を再確認させてくれる歌が満ち溢れていた。
ライブドァ事件、天下り問題、耐震偽造事件など、まさにこの「道歌」に戒められてきた日本人の心の在り方、生き方をもう少し確かに引き継いでおれば、ここまで呆れ返ることにならなかったのではないかと思う。
ロシア人の日本文学研究者が、古きよき日本を「道歌」を通して発見、その人間としての生き様のすばらしさ、精神を読み取って賞賛されているのに、当の日本人が、「道歌」に歌われているような道徳や振る舞い、心の持ち方などを説教くさいと斥けてしまうのはさびしい限りである。 たとえ、一道、一芸を探求する立場になくとも、先人の色々な「道歌」を噛みしめて、日常生活を「生活道」と捉えてみれば、なにか道歌のひとつも読んで人生を終えることが出来るかも知れないと思う。
「後の世と 聞けば遠きに 似たれども 知らずや今日も その日なりとは」
「なるように なろうというは 捨て言葉 ただなすように なると思えよ」こんな道歌を口ずさむと、日々の己の生き様が寒い。
でも、そんなに一直線に求道的生き方が出来ないからこそ葛藤の中で先人も道歌を詠み,人の愚かさを戒めようとしたのかも知れない。
「ぼちぼち頑張ります。」誰にともなく言いかけながら、日本人の精神文化の透明感は失たくないと思った。
私の思考散歩・生活雑感 ぽつり草々 シンプル 002
価値観の表現の一つとして、シンプルという言葉を使うことがある。
シンプルデザインなどと言われるのはその例であるが、〔simple is best〕などと言うように、おおむね誰からも理解され、同意を得られやすい現代の価値観の指標でもある。
住宅設計のプロセスにおいても、住まい手との打ち合わせの中で、一度や二度は、「シンプルな方で選びましょう。」などと言いながら了解点を見出していることがある。
本当のところ、我々の見た目の姿や生活行為・ライフスタイルは氷山の一角であり、氷山の水面下の部分にあたる多大な心理的な堆積物、夢、願望、しみついた習性などはシンプルとは限らない。
何かがあるような気がするが、意識することも出来ない。
住宅設計は、その水面下の部分をシンプルという選択・概念イメージで少しでも水面上に形として浮上させ認識できるように頑張っている行為でもある。
決定の一瞬において、「シンプル」と言う概念は、答えを求めていた悩みの時から解き放たれた爽快な気分、意思決定による確かさ、安心感を与えてくれるが、同時に、水面下に残されているものの重さを感じさせる。
そんな時、水面下の声なき声、無意識化の心を最大限に生かすため「シンプル」にフレキシブルさを加えよう、持たせようと努力する。
住宅設計カウンセリングにおいては、まず、住まい手の生活をいろいろなアプローチからシンプルに切り取ってみる。シンプルに切り取った時、どこか悲鳴を上げる水面下の世界、部分があれば、それは、「いや」「嫌い」などの拒絶反応を起こす。
処方箋として、時間軸を取り込んだ空間の多重使い、光と影、自然の移ろいを同時に意識させることで「シンプル」にフレキシブルさを加えることが必要になる。
つまり多面的な受け止めの可能な表現、新しい機能性を見つけ出すことが必要になる。
しかし、これが過ぎると「シンプル」はシンプルでなくなる。
意思決定、選択の結果、知性の働きでその住まい手のコンセプト・文化資本を形にするはずであった設計の目論見が失われてしまうからだ。
とはいえ、水面上に表れたものがトータルにシンプルであれば、シンボリックでわかりやすいが、他者から見たシンボリックなシンプルさは、住まい手にとっては必ずしも満足を与えない。
色や形の統一、様式化は容易にコンセプト・文化を表現する可能性を持つが、かたちとして表現されなかった、生まれなかった住まい手の水面下の何かを、如何にシンプルに同調させるかは、ものづくりへの信頼関係を通じて、「愛」とか「神」といった見えないものへの共感を共有する以外に不可能なのかもしれない。
私の思考散歩・生活雑感 ぽつり草々 はじめに 001
大きくは人生、いや、もっと身近な生活の流れの中で、色々な人々との出会い、色々なメディアからの情報、仕事を通じての体験などを感学することで、自らにぽつりと湧きあがる感想を書きとめたのが「ぽつり草々」である。
一つのテーマに基づいて、思索したものでもなく、本当に、ぽつり、ぽつりの一言であって、脈絡がないかも知れないが、つぶやいたのは自分であり、自分は自分であるから、時に読み返した折に、自分の何かが発見できるかと思ってみたりする。
もし、ぽつり草々を読んでくれる人の感想や意見を聞くことが出来れば、新たな自分のあり姿を見つめ直すことにつながるかも知れない。
時々の生活のひと葉がいかに舞い散り、何処にたどり着くのか、限られた自分の命の世界を、手繰ろうと、ぽつり、ささやいてみるのである。
廣瀬 滋著